前へ進め、お前にはそのがある

>乗り越えろ -act13-







今までに感じた事のない、恐怖だった。立ち尽くす自分がいて、流れていく記憶がその横を過ぎ去れば、そのまま消えてしまう。
掴もうと必死にもがいて手を伸ばしても掴むことも出来ず、受け止める事もできない。
些細な会話から、大切な言葉。沢山貰った想いも、全てがまるでシャボン玉が弾けるかのように消えていく。
その時、一瞬何かの記憶が、自分の体をすり抜けた。それは、忘れてはいけない、大切な言葉だったような気がする。
もうすでにそれは、はじけて消えてしまった。それでも流れる記憶を掻き分けて手を伸ばすと、何かを掴んだような感覚が確かにあった。
その感覚は自分の手の中にあり、強く閉じた目を開ければ、掴んだのは砂時計だった。




――― 絶対、の事忘れない。何があっても絶対に


――― うん。私も、絶対忘れたりしないよ




そうだ、約束した。忘れないと、約束をした。
沢山の記憶が流れていく。もう、元の世界に戻ったあとの事すら忘れた。思った次には、戻ったことすらも忘れる。
それなのにまるで、その約束は記憶とは別の場所に張り付いたかのように離れない。それでも、徐々に剥がれていこうとしている。
忘れてはいけない。大切な約束だ。今もは約束を守ってくれているだろう。なのに自分が破ってはいけない。

掴んだ砂時計を強く握り締め、うずくまった体を起こしたは、一度手の中の砂時計を見つめ小さく、「ごめん」と呟くと地面に叩きつけようと振りかざす。
その姿を雨月が気付き無駄だと吐き捨てるように言うが、言葉に重なるように響いたのはガラスが割れる細い音。
飛び散った木片とガラスの破片。握り締めていたの手は破片で所々切れてしまった。
砂時計の流れが止まった瞬間、今まで消えていた記憶が逆流してくる。沢山の記憶の流れに短く呻き声をあげ、またうずくまった。
新八と神楽がその傍らに駆け寄れば、大丈夫だと言いながら少し苦しげではあったが、微かな笑みを浮かべる。
その姿を、雨月はただ驚き固まり、見つめることしかできない。


「・・・何故だ・・・何故・・・。それは貴女にとって大切なものだったはず。だからこそ、壊れなかった・・・それなのに何故壊せる! 何故!」


声を荒げて何故、とばかり繰り返す雨月にはの行動が理解できないのだろう。確かに雨月の言う通り、砂時計はにとって大切なものだった。
そう思っていたからこそ壊れないと知っても、壊す為に簡単に気持ちを切り替えられるわけでもない。
ただ、それ以上に大切なものが確かにあった。
それは記憶ではなく心に、魂に刻み込まれていたのだと、もここへきて初めて気付いた。


「忘れないと・・・約束したからです・・・」

「約束・・・? そんな不確かな、形の無い物のために壊したと・・・壊せたというのですか」

「約束を破って形ある物を守るなら、それを壊して形のない物を、私は守ります」


真っ直ぐと射抜くような視線を向け、はっきりと言葉にしたを見れば、驚愕の表情はやがて苦々しく歪んでいく。
の言葉に、形の無い物に縋る事など馬鹿げていると、先ほどよりも不快感を増した表情を浮かべた。
つくづく不愉快な存在だと呟けば懐から時計を取り出し時刻を確認すると、時間を無駄に浪費してしまったと吐き捨てるように言う。
研究者として、実験対象は元へ戻すのが礼儀である。だがこれ以上、に関わる必要性が見出せないと背を向けた。


「貴女は一度、元の世界に帰した。ならば実験台としての価値など、とうに失せています」


雨月の突然の言葉にただ呆然とするしかない。
今までを元の世界に帰そうと躍起になっていたと言うのに、この変化はあまりにも釈然としなかった。
完璧主義者である彼の性格を考えれば、ここはなんとしてもを元の世界に帰すのだろうと思っていた。
言葉にはしなかったが、雨月には伝わっただろう達の戸惑い。
それに答えるかのように、微かに振り返ると、これ以上はただの時間の無駄なのだとはっきりと言葉にした。


「貴方方のように、時間を無駄に浪費する事はしないだけです」


この先進めようとしている研究に手をつけるにあたって、はたしてここまで頑なに、元の世界に帰る事を拒みつづけるを帰すことに意味があるのか。
考えた結果、結局は今、雨月自身がしていることはただ無駄な事なのだと判断したのだろう。
それに一度帰したのだから、そのあとの事に責任を持つ必要もない。
そう判断し去ろうとする雨月へ、が声をかけた事で足が止まる。だが振り返りはしない。

その背中に、は今までした事を許す事は無いとはっきりと言葉にした。
雨月のした事でどれだけの恐怖を味わい、苦しんだか。それどころか銀時たちまで巻き込んだ。それを考えれば許す事などできるわけも無い。
何でも許せるほどに、はお人好しでもなければ聖人なわけでもない。

だが今回の事で、弱い自分に気付く事も出来た。銀時達に甘えきっていた自分を叱咤することが出来た。
ただ一つ、雨月へ伝えるべき言葉がある。もしかしたら、これはおかしいかもしれない。
それでもはこの一言は伝えたかった。





「ありがとう、ございます」





たとえ伝える言葉が間違っていようと、雨月の存在があればこそ、その行為があったからこそ今の自分がいて、あの時乗り越えられたものがある。
はっきりと告げられた言葉に、雨月は相変わらず背を向けたまま無言だった。
ほんの数秒の沈黙の後、どこからかとり出したシルクハットを目深に被ると、ステッキの持ち方を変えた。



「私の研究は成功だった。ただ一つ、失敗があるとすれば、実験台に貴女を選んだ事でしょうね」



始終理解不能な存在でしかなかったと、小さく漏らすと同時にステッキを回せば、その姿は音も無く消えてしまった。





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