冥界の双犬はを纏い

-act 07-







冥界。百八もいた冥闘士は、冥界へやってきたアテナの聖闘士によって数多失われた。
それでも、冥王の創り出した冥界は変わらず亡者に相応の罰を与え続ける。いつ終わるとも知れぬ、死の世界にあっての苦痛。本来ならそれらを管理し、冥界の秩序を護るのが冥闘士の役目なのでは無いだろうか。
そう、はアンティノーラの奥でずっと考えていた。

突然魔星に目醒め、導かれるままに冥界へくれば同じような境遇の者が沢山いた。誰しも今まで関わりの無かったような世界。だが纏う冥衣からもたらされる抗いがたい冥王の意思なのか、誰も冥界という世界と己が冥闘士である事に、一片たりも疑問に思う者はいない。はずだったのだ。本来ならば。
その中、はあまりにも異質だった。まるで神の手によって造られただろう、冥衣の意思にすらも飲まれないといったように、自己の意識も、地上での記憶も、人としての何もかもを残していた。それ故に周りとは摩擦こそ生じずとも、内面では隔たりができる事も必然。
それでも、は自身へ問う事をやめない。

他の者達が迷う事もなくハーデスへ傅き、地上を我が物に、とその意志に手となり足となって敵と戦う。しかし、果たして彼等は本当に敵なのだろうか。本来の敵とは、何なのだろうか。
今まで自分たちが住んでいた地上だ。それを護ろうとする者と、何故戦わなければならない。ユートピアなどと言ってはいるが、本当にそれは自分たちが想像するものと同じ物なのだろうか。疑問は尽きる事はなかった。
しかしそれを他者へ問うだけ無駄だろうと、一言も意志を口にはせず、それでも戦う意志を見せないをアイアコスは前線へ出す気にはならず。
ならばアンティノーラから先に敵をいれぬように見張っておけ、と指示を出されそれに大人しく従った。
ここまでまさか聖闘士がくるわけもない。事実上の足手纏いとしての扱いだった。しかしにとってはそれで充分である。
この場を護るという大義名分とともに、人と闘わず済むという逃げができたのだから。

けして戦う術が無いわけではない。
あらゆる物を砕く者。冥衣の一部である武器を操る者。己の中に在りし小宇宙を型作り繰る者。その能力や戦闘スタイルは様々であり、修行などといったものはなく難なく使いこなしている。もまた、冥闘士となって後、自己の内に燻る物を感じるようになった。次第に形作られたそれが炎であると知って、まだ日は浅い。
纏う冥衣のおかげなのか、それを操るのに苦はなかったが心が反発する。
たとえば、この闘いが冥界の秩序を乱そうとする者達との闘いならば、闘う事に戸惑いがあってもここまで迷いはしないだろう。
だが、彼等は違う。冥界が地上を呑み込もうとしている。まったく真逆の立場なのだ。


「誰も・・・こなければ良いのに・・・でも」


ここまでたどり着く者が居なかったらそれは即ち相手の敗北を意味するのだろう。その時、地上はどうなっているのか。
戦いたくは無い。同時に、この奥へ行く者が現れれば良いと、反発する思いが芽生える。それでも与えられた仕事はこなさなければならない。
この任を負ってからすぐ、アンティノーラの横に炎の幕を作った。熱く揺れる炎にむやみやたらと突っ込んで行く者は普通ならば居ない。これがの今できうる限りの防衛手段だった。
炎の幕を作ってからはアンティノーラ内部で息を潜め、ただジッとしていた。闘志の無き者が外へ居ても邪魔になるだけだ。
膝を抱え、ただ闘いが終わることを祈る。しかしその終わりは果たして冥界側の終わりか、地上側の終わりか。悩みは尽きない。晴れる事もない。
ならばいっそ、ここを誰も通さず、目をそらし言われたままにここを護る事が自分の役目で、それを全うすればいいと。視野を自ら狭めてただひっそりと、時が過ぎるのを待っていた。それは、冥闘士としてではなく、ただ突然の出来事に飲まれ巻き込まれた「人」としての、の感情。およそ冥衣を纏う者としては遠く及ばない考え。


「っ! ・・・来て、ほしくなかったのにな・・・」


外に感じた気配。二つの小宇宙がまっすぐに向かってくる。
アンティノーラから外へ出ようと立ち上がったが、は感じた小宇宙が誰の者であるか気付くとその動きを止めた。鼓動が早鳴り、汗が噴出す。人が纏うにはあまりに強大な小宇宙。その強さとは裏腹に、慈愛に満ちた優しい暖かさと、意志を貫こうとするが故の凛とした冷たさを感じる。
姿を見ずともわかる、女神の小宇宙。その傍らに感じるのは聖闘士の誰かだろう。それがシャカの小宇宙である事は、アンティノーラの奥に居るにはわからない。

まるで足が石と化したかのように少しも動くことができないは、外に張った炎の幕と呼応するかのように自身の小宇宙の揺れを感じた。
次に、まるで水泡が弾ける様な一瞬の感覚。炎の幕は掻き消され、二つの小宇宙はジュデッカへ向かい動く。
十分に時間を置いてからの体から漸く力が抜け、足が動くまで至った。金縛りから解き放たれたかのような感覚に苛まれながら、ふらつく足取りのまま外へ出れば炎は見事に掻き消され、元より何も無かったかのような静けさが辺りを包んだ。
巻き上がった炎で暖められた辺りの温度も平常のものへと変化しつつある。微かに熱の残留が頬を撫ぜた。

まさかアテナ自身が、この冥界へ来るとは思っていなかった。誰がそんなことを想像するか。
確かに報告では聖域で数多の犠牲を払いつつも、アテナは死んだと聞いた。しかしその女神は、今この冥界に来ている。言い換えればここへ来るために、死を選んだとでも言うのか。
どちらにしても同じこと。
けしてこの戦いをあきらめたわけでも逃げたわけでもない。アテナは地上を守る神。その地上を守るために、その身を争いの渦中へ自ら投じたその覚悟。
それが如何なものか。が考えてもはかりかねる程のものだ。
それどころか、ここをただ言われるままに護ろうと奥へ身を隠し、闘う事すら放棄している。はそんな己を恥じた。
しかしそう思えどやはり闘うことにまだ、幾ばくかの抵抗がある。今この状況でなお闘う理由を見出せず悔しげに唇をかみ締めた。
胸元で拳を握りしめ、その内側に小宇宙を凝縮させる。手の内でそれは次第に確かな熱を持ってその拳を明々と照らし、燃える。
炎を纏わせた拳を何かを払うかのような動作で横へ薙ぐと、先ほどまで炎の幕があった場所にもう一度同じものを作り上げ、またアンティノーラの奥へとその身を隠した。

明かりも無い暗い室内。その奥で壁に背を預け、膝を抱え座るは、顔を膝へ埋めるようにして身を縮ませ目を瞑る。
なぜ、他の者達のように冥衣の意思に呑まれ従順な冥闘士として居られないのか。そう在れないのか。
微かに地上の記憶を残す者。まったく残らぬ者。その差は様々だが、思い悩み力を震えないのはだけだった。
他の者のように在りたい。そう願った所で他人になれるわけも無い。
なれないからこそ、憧れる。思い描く。あの人のように、なれたらと。


いつも迷わずに真っ直ぐと突き進む人。周囲の意見を聞いても、けして己の意志を曲げぬ人。
自分にとってまるで太陽のような人で、時には月のような人。星のように瞬いては流れ星のように真っ直ぐと意思を貫いた。
我が強く、融通がきかない。そう言われ疎まれようとも、ただ笑って言い聞かせるかのようにいつも決まって言う言葉があった。


思考はそこで途絶え、外にまた近づく気配を感じ顔を上げる。
今、何かをつかみ掛けたような気がした。あと、一歩。足りない。
はふらりと立ち上がると外へと出る。まだ小さい影はあっという間に肉眼で捉えられるほど接近した。ボロボロの聖衣を纏い走る姿はまるで止まる気配など無い。
まだ幼さの残る少年のはずだというのに、その強い意志を宿した目は見る相手を射抜くかのようにすら感じる。
先ほどのように陰に隠れやり過ごしては、また先ほどと同じ事だと一歩、前に出る。


「今度はお前が相手か! 言っておくが、俺は急いでるんだ。悠長に相手なんかしてられない!」


の姿を見て足を止めた星矢が構える。今にも技を繰り出そうとする態勢にもかかわらず、は一切構えもせず闘志すら感じられない。
その様子に訝しげに顔を歪めたがけして油断はせず、視線をからはずす事は無かった。
対してはただ静かに星矢を見つめるばかりで小宇宙にも変化が見られない。まったく闘う意思を見せない事に、星矢の警戒はさらに強まる。


「・・・貴方は、なぜ聖闘士として闘うの?」


突然のの問いに言葉は発せず、ただ疑問の意を視線に絡ませより一層警戒を強めた。


「何の為に、闘うの?」

「・・・何なんだ? そんなこと聞いてどうする?」


さらに違う問いを重ねたへとうとう、問いで返してしまった星矢だがそれは当然の困惑だった。
構わずはもう一度、同じ問いをする。



「そんなの決まっている。アテナの聖闘士だからだ。女神を、そして地上を守るために闘う!」

「それは何故? 誰かがそうしろと言ったから?」

「そんなもん、決まってるだろ。俺がそう決めた。俺の、心がそう決めたからだ!!」



はっきりと言葉にしたそれは、真っ直ぐにの心に突き刺さった。
何もかも忘れてなんかいない。だからこんなに、闘うことが苦しいのだと思っていた。しかしそれは勘違いで、唯一つ。けして忘れてはいけない事を忘れていた。
星矢の言葉に心にかかっていた靄が晴れるかのような感覚を覚える。
途絶えなかったの問いが切れた事に、星矢が拳を握り隙を伺うように身を低く構えた。臨戦態勢の星矢に構わずは背を向けると、自ら作り出した炎の幕へ手をかざし炎を握るような動作をすればすばやくその手を横へ薙ぐ。炎の幕が掻き消え、の行動に驚くも何かの技を出す前の動作かと警戒をとく事は無い。
ピリピリとした空気を纏った星矢に反して一切闘志を纏うことも無いは静かに振り返ると、目を瞑った。


「通って」

「え?」

「私はまだ、ただの『人』でしかない。闘う意思は無い。だから今のうちに通って。成すべき事があるなら、今とるべき行動は分かるはず」

「・・・」


の行動と言葉は怪しむには十分すぎる物がある。だがグズグズしていられないのも確かであり、一刻も早く女神の聖衣を持っていかなければならなかった。
選択の余地など無いと、警戒をしつつ星矢はの横を走り抜けた。刹那、舞い上がった炎は新たな壁を作り星矢とを隔て強く爆ぜる。
驚き足を止め後ろを振り返るが敵の真意を測る余裕など無く、星矢はすべてを振り切るかのように迷わずジュデッカへ向け走り出した。
炎の幕の向こうで小さくなっていく星矢の小宇宙を感じながら、はまだ目を閉じたまま暗闇の空を見上げる。
が最後、『人』としての意思と思いを星矢へ託し、残した。これを最後に目をそらす事は止めよう。残った記憶に縋って逃げようとすることも止めよう。


「自分の心で、決めたこと・・・」


心に響いた、星矢の真っ直ぐな言葉。
そして思い出した、大切な事。けして忘れてはいけない事だった。一番大切な思い出。


笑顔が温かく太陽のような人だった。優しく包む月のような人だった。
時には子供のようにキラキラと瞬く星のような人だった。その芯は、真っ直ぐと意志を貫く流れ星のような人だった。
周囲が何を言おうと、揺れず、己を見失わず。ただ、前を見据えていた。そしてまるで子守唄のように、決まって紡いだ言葉があった。


  己で決めたことを貫き通せ。迷い、惑った時こそ己の心に耳を傾けろ。己で決め、進んだ道を恥じるな。
  己の、魂を誇れ。



「・・・私は、冥闘士。変えようの無い事実から、目をそらしてもどうにもならない。なら、その役目を全うするまで」


ただそれは、地上を冥王の支配下になど、他の者たちの掲げている冥王の意思そのままで動くのではない。
あくまで自らの意思、自ら決めた事で、冥闘士としての力を揮い、冥闘士として在ろう。
そこに冥王の意思が反映されなければまるで矛盾しているといわれようとも、己の意思で冥闘士として生きる。
この魂が、冥闘士の宿命の下に生まれたものというのならばそれを誇ればいい。闘士としてまだ足りないものがあるとしても、今はそれだけで闘う意思を宿すには十分だった。


「ここを護る。それが、今の私の役目」


薄く揺れる炎の幕へ、かざした手をさらに伸ばし炎の中へと手を差し入れた。
瞬間、今まで感じたことの無い体内での炎の逆流を感じ、未だ奥底で燻っていた焔を弾けさせた。熱く、高く、深く。奥へと流れ込んでくる。見開いた眼の奥がチカチカと光った。
そのまま触れた場所から小宇宙を伝え流し、炎はより一層燃え上がり先ほどよりもずっと熱く、それこそ骨まで残らないほどの焔の壁を作り上げる。辺り一面は冥界ではありえないほどの明るさに照らされ曝け出された。





<<BACK /TOP/ NEXT>>