口が出るか、手が出るか
アンティノーラの執務室横にある給湯室。は上司の午前の休憩のために熱い緑茶を湯飲みに煎れていた。
以前、久しぶりに日本に帰った際、暫くはこれないだろうと大量に茶葉を買っておいたのだが、あまりにも買いすぎたためにいくつかを
同僚や上司へおすそ分けをした。ファラオからはどれだけ大量に買ったのだと呆れられてしまったくらいだ。
どうやら緑茶を気に入ったらしいアイアコスにお茶請けもあわせたものが良いと言われ、わざわざ煎餅や和菓子を買いに行かされた。
煎餅の入った缶を開け、適当に皿に乗せて準備ができた頃、香りに気付いたのか隣室から早く持ってこいと催促の声がかけられる。
「アイアコス様、お茶請けなんですけど、たまには違うのにしませんか?」
「別に今のままでもいいが、何か問題でもあるのか?」
「ここ最近ずっとお煎餅じゃないですか。そろそろ飽きがくるんじゃ無いかと・・・」
少し前までは饅頭やお団子など様々な物を出していた。時にはアイスやケーキなど、洋菓子にもあわせたこともある。
どれも美味しいと口にしていたが、団子や饅頭は甘さが口にどうしても残るだの、洋菓子は甘すぎるだのと言って最後には煎餅に落ち着く。
今回でお茶請けが煎餅になって一月経つ。その間、まったく他のお茶請けには手をつけていない。腐る前に処理するのはいつも達部下だった。
目の前で豪快に齧り付く上司の姿に、よく飽きがこないものだと感心しつつも自分の分の煎餅に手を伸ばした。
「これが一番いい。押し付けがましく甘いわけでもなく、この歯ごたえもいい。それに、物によってしょっぱかったり甘かったり辛かったりと、実に面白い」
「アイアコス様がそれで良いって言うなら、良いですけれど。でもそろそろ今のお煎餅も無くなりそうです」
「なら、経費で落すから、この際容量のデカイ奴を買ってこい」
自分の好きなのも一つぐらい買ってきても構わないからと、まるで子供のお使いのようだ。
の午後の仕事はどうやら買出しで決まってしまったらしい。
拒否する理由もないのでいいのだが、はたして今日中に上司のお気に召す煎餅が見つかるかどうか。それが問題だ。
休憩を終えて湯のみを片付けた後、さっそく茶菓子調達の為、アイアコスから渡されたお金を懐に確り仕舞いこみ地上へと向かう。
さすがに冥衣のままでは目立ってしまう。一先ず日本まではそのままの姿で向かい、一目のつかない場所でコッソリ着替えるしかなかった。
しかし着替えた後、待機状態の冥衣をその場に置いたままで良いかどうか考えただが、ものの五秒もせず、きっと大丈夫だろうと結論づけ
さっさと買出しを終らせてしまおうと迷いなく目的地へ向かって歩き出した。
「・・・さすがに五袋は買いすぎかなぁ・・・?」
目的の物を買ったは良いが、両手に袋を持って帰る傍ら、少々買いすぎたような気がしてならなかった。
しかし前は三袋買ってあっという間に平らげてしまったのだ。なにせ食べるのはアイアコスだけでは無い。アンティノーラで事務処理をする者の殆どは
休憩のお供に緑茶と煎餅が当たり前となってしまっている。その中には味の好みの違いで口にしない者も居るが、過半数は確実に煎餅消費者だ。
だからと言ってアイアコスほど煎餅好きでは無い。他の者用に、まったく違うお茶請けも確りと買っているが、それも量が多いことに変わりは無い。
どうせ経費で落されるのだし、懐も痛くは無い。いざとなれば私室へ持ち帰ればいい。
もしそれでも消費が追いつかなければラダマンティスやミーノスへおすそ分けをすれば問題ない。
多少の悩みもすべて自己完結で終わらせて、さっさと冥界へ帰るべく冥衣を待機させていた場所へと戻れば、去った時と寸分違わずその場に鎮座している。
まるで飼い犬へするかのようにその双犬の頭を撫ぜ、「ただいま」と言えば反応したかのように分散、装着された。
「よし、帰ろう!」
冥衣を纏った姿で、大きく店名が書かれているビニール袋を両手に下げている姿は、どこか異様だった。
冥界へ帰った後カロンにも確りその姿を指摘されたが、はさして気にはしていない様子で彼を呆れさせたのは言うまでもない。
アンティノーラに戻れば予想外に大量に買ってきていた事にアイアコスは少し驚き、しかしそれに何かを言及する事は無く
帰ってきて早々にへお茶を催促する。どうやら仕事も一段落着いた後の一服らしい。強制的にはそれに付き合わされる形になる。
「今日も一日ご苦労様です」
「ん」
「あ、今日とっても安いお店見つけたんですよ! おかげで大量に買ってきちゃいました」
「どうせすぐ無くなる」
「そうですよね。だって今も随分な量を食べてますもんね」
「美味いんだから仕方がないだろう。それより」
「はい? 何です・・・っ!?」
の言葉はアイアコスの突然の行動に驚き、半端な所で途切れてしまう。
慣れない、それこそ初めての感触を頬に感じ、それが何であるのか把握したあとには言葉を発する事もできず、そこをおさえてソファから勢いよく立ち上がる。
アイアコスはの反応に目を瞬かせたあとにすぐ悪戯が成功したかのような笑みを浮かべ、クツクツと喉で笑った。
反論したくとも恥ずかしさと、予想以上に気が動転したおかげでその口は何も紡ぐ事は出来ず、真っ赤になったまま唇を微かに戦慄かせるだけに終わる。
その姿にとうとうアイアコスの笑いは含む物からはっきりと声を上げたものへと変わってしまった。そこで漸く、も声を出すまでに回復した。
「あ、ああああ、アイアコス様!? あなた今何しました!?」
「何って、お前の頬に欠片が付いたから取ってやっただけだが?」
「と、取るにしても! 教えてくれるか、手で取るかのどっちかでいいじゃないですか!」
「面倒だ。間をとって俺の口で取ってやったんだから良いじゃないか」
「良くありません! あ、あんな、恥ずかしい!」
「俺は口より手が先に出る」
「今は逆です!」
「そうだな。しかし・・・」
なかなか美味かったぞ。
そんな事を笑いを含ませて言われてしまえば、羞恥を超えて脱力しか湧かない。
何を言っても無駄だと理解したは良いが、こういった展開にはまったく免疫が無いにしてみればとんでもない事態でしかなく、まともに顔すら見れない。
アイアコスから離れた場所に腰掛けると冷めぬ顔の熱を感じながら、なるべく見られないようにと手で顔を覆い、それでも煎餅には確り手を伸ばす。
暫くして隣に座れと言われたが先ほどの出来事に、今までまったく皆無と言ってよかった警戒心が芽生え、口を尖らせながら上司の顔を伺う姿に
思わずアイアコスはまた吹き出した。まるで拾ってきたばかりの犬のようだと思いながらも、もう一度手招きすれば観念したらしく、大人しく隣に座した。
「まったく。だからお前はからかいたくなる」
「・・・あんまり苛めると、ミーノス様かラダマンティス様の所に異動願い出しちゃいますよ」
「それが出来るならばやってみるがいい」
結局そんなの抵抗が実行された事はその後一度もなく、しかしアイアコスのからかいは隙あらば続いたらしい。
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