空が落ちればいいのに







いつものお茶の時間になり、執務室の奥にある給湯室で緑茶をいれ、湯飲みを乗せたお盆を持ったまま
給湯室と執務室の境となる扉の前に立ったまま、目の前に座るアイアコスの背中を見ていた。
三巨頭は皆、有翼の冥衣を纏っている。アイアコスの纏う冥衣はガルーダ。その背には空を統べる者としての存在を示すように
大きく広がった翼が在った。
比べて自分の冥衣を見てみるが、双犬オルトロスを模したそれは地を駆けることには長けるが、けして空を翔ることはできない。


「おい、いつまでそこで呆けてるつもりだ?」

「え、あ、はい。すいません」


思考に飲まれていたに振り返らずかけられたアイアコスの声によって、ひとまずそこで思考は中断された。
開いた場所にお茶とお茶請けを出し、も近くにある椅子に座ってお茶を飲む。
ふぅと息を短く吐いたところで先ほど中断した思考がまた走り出した。
チラと視線をあげればお茶を飲もうとするアイアコスの横顔が視界に入る。
立場も、力も、小宇宙も比べる必要が無いほどの差があり、それはまるで届かぬ大空を飛ぶ鳥を望むかのような。
霧の向こう側に見える朧げな何かを掴もうとするかのような。
いっそこちらから望んで届かないのならば、飛ぶ空を低くしてしまえばいい。
それでも届かないのなら、いっそその空が。


「落ちちゃえば良いのにな」

「何がだ」

「いや、だから・・・って、あれ? もしかして声に出てました?」

「落ちればいいだとか言ってたが、何か取れないものでもあるのか?」

「うーん。近からず遠からずって感じですね」


の思考などわかりもしないアイアコスの、どこか的の外れたように思える言葉に苦笑を浮かべながらお茶を一口飲む。
まさか届かないから空が落ちてしまえば、などと考えているなどいえるはずも無い。
一つ間違えば部下が上司を引き摺り下ろそうとしてるような発言にすら捉えられる。


「取れないものがあるなら言えば取ってやるぞ」

「いや、別に・・・」


取れないものなど無いと言おうとしたが、ふとアイアコスの顔を見れば、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
聞かずともの言わんとしている事は分かっている、と言ったような表情だ。
一瞬目を見開いた後、どうやら最初から呟いた言葉の意味をわかっていて尚、意地も悪くあえて聞いてきたようだと理解すれば
つくづくこの上司には勝てないと思い知らされた。
ようは、素直に甘えろと言うことだろう。しかしまだ時間は勤務時間内。いつ誰が、執務室にやってくるかもわからない。
そんな状況でどう甘えればいいのか。再び思考を巡らせただが、羞恥が勝りどうにも素直に口に出せない。
視線を泳がせはにかみながらも言葉を懸命に選んでいたが、先に痺れを切らしたアイアコスが手招きしてきた。
疑問を少なからず抱きながら言われるままにアイアコスの元へ行くと突然、その手を引かれて膝の上に横抱きにされる。


「あ、あああのっ!」

「お前は妙な事には積極的だというのに、こういった直接的な事には奥手だな。まぁ、そこが良いと言えば良いのだが・・・」

「・・・アイアコス様・・・あの、どなたか着たらものすごく恥ずかしいのですが・・・」

「見せ付けておけ。どうせ周囲にはバレているんだ。それと、お前は一つ勘違いをしている」

「勘違い?」


頬を赤らめ口を尖らせつつが問えば、フッと微笑み顔をグイと近づけた。
突然の行動にビクリと肩を揺らすが、いつの間にか腰に添えられた手が逃げることを許さず、顎を掴まれ顔すらそらせない。
あわやこのまま、しかもこんな場所で唇を奪われてしまうのかと、慌てるをよそに耳元へ唇を寄せ囁いた。
脳の処理能力を上回る事に言葉を返す前に、アイアコスが視線だけを扉のほうへ移し挑戦的な瞳を細める。



「・・・で、お前は何の用できたんだ、ラダマンティス」

「ラ、・・・ラダマンティス様!? あ、いや、これはそのっ!? し、失礼しましたっ!!」


扉の前に立っていたラダマンティスの存在に気付いていたのだろう、アイアコスは気にした様子も無く問いかければ
膝の上に乗せていたは慌てふためき立ち上がると、両頬を手で包むように隠しながらラダマンティスの横を走り抜けて
アンティノーラを飛び出した。
走り去るの後姿を一瞥したラダマンティスは溜息をつくと、勝ち誇ったような笑みを浮かべるアイアコスへ呆れた眼差しを向ける。


「あまりからかうと逃げられるぞ?」

「からかってなどいない。可愛がっているだけだ」

も苦労しているようだな」




アンティノーラを走り逃げ出したには二人がそんな会話などしているなどもちろん知る由も無く、火照った顔を覚ますのと
高鳴る心臓を静めるためにコキュートスへとやってきたはいいが、冷めるどころか先ほどの囁きを思い出してよけいに心臓が高鳴った。
意地悪く、時にはからかってきたりもするが先ほどのような事は本当にまれだ。
それも甘い囁きを残された事など初めてで、どうしていいのか分からない。



―― このガルーダの心はすでにの元へ落ちている



思い出して、漸く落ち着いてきた顔の火照りが再び戻ってくればいっそ、このままコキュートスに潜ってしまいたいとすら思えてくる。
この心臓の高鳴りが落ち着くまで暫くの間はアンティノーラへ戻れないだろうと思いながら、その場にうずくまっていたを迎えに来たのは
シルフィードだった。どうやらラダマンティス辺りが気を利かせてくれたのだろう。そこまでしてくれて戻らないわけにもいかない。
いまだ火照る頬はそのままだし、心臓も五月蝿いままだ。
そんな状態で戻った後どうなったのか、それを知るのは本人たちのみである。





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